すべての群れの客である

大地から5センチくらい浮きながら文章を書くよ!

あかるい水影こうかん殺人

 殺してしまえるのなら殺してしまいたいと言われたので、殺してくれるのならば殺されてもいいと答えたら本当に殺されてしまった。十六歳か十七歳の夏。死んでいるのでそれからどうなったかは知らない。わたしは沢山のことを忘れている。

 はじめて訪れた高校のはじめて入った更衣室で、なにがしかの消毒の匂いがしていた。先輩の首には髪がからまっていて、なぜ髪を伸ばしたのだろうと私は薄っすらと考えていた。答えは知っていたけれど、考えていた。

 付き合っていた男がいたことは覚えているが名前を思い出せない。地縛霊はこの地に関係のある記憶以外は所持できないシステムなのかもしれない。殺された、ということ以外にこの地に思い出なんてひとつもないけれど。他の部員のこともまったく思い出せない。

 乱反射という言葉を教えてくれたのは理科の先生ではなかった。理科の先生ではなかった、ということだけしか私は覚えていない。ひぐらしが鳴いていたからあれは夏の終わりだ。あのとき、先輩は水面を差して、光ってる、といった。プールには枯葉がいくつも落ちていて、虫がたくさん死んでいた。汚いといって、みんなはすぐに出ていってしまった。

 彼氏とうまくいっていない、ということはなかった。生活に大きな翳りがあるというわけではなかった。それなりだ。わたしの人生は常にそれなりに進んできていた。多大な忘却があるので、たぶん、という注釈つきだ。わたしはあの子の声で放たれた言葉しか思い出せない。あのとき、外側の世界でなにが起きていたのか、わたしがどういう人間だったのか、なにを考えていたのか、あの子の存在を通してしか思い出せない。わたしはあの子に殺されたかったはずだ。それだけは覚えている。殺されたのだから満願成就だ。それなのに、わたしはどうしていつまでもここにいるのだろう。

 一日中試合を繰り返して体にプールの水はぬるくて重かった。先輩に回ってみせろと言われたので水の中で前転したら、耳に水が入った。片耳から聞こえる世界は水に沈んでいてごうごうと唸っていたけど静かだった。先輩の声が遠く聞こえた。こんな風に毎日会えなくなるのは不思議な気持ちがする、というようなことをいっていた。引退試合は明後日だった。私は、もう片方の耳にも水をいれたくて何度も水の中を回った。もうすぐ日が沈むのにいつまでも水面が乱反射して光るので苛々した。このきらきらと一緒に、私はきれいな思い出にされるのだろうか。きれいじゃない。きれいじゃない。私は、きれいじゃない。今だって死んでいる虫の中を泳いでいる。

 幽霊になってから毎年見守ってきたのに、今年はなぜかプールの授業が一回もなかった。夏が始まる前に一度掃除されたきりで、水面は真緑に揺れている。そういえばあの子はとんぼが好きだった。とんぼに限らず虫が好きだったかもしれない。わたしはよく虫を殺していたのであの子が虫をいつまでもじっと見ていると笑いたくなった。あの獣のような目。苛烈に純真で、よく飢えていた。わたしはその目で見られるたびに虫を殺しているときのことを思い出した。いじらしく生きているものを見ていると殺してしまいたくなる。わたしはいつもあの子がもっとも傷つく方法を考えていた。本当にあの子が好きで好きで仕方がなかったのだ。殺したいほど可愛かった。だからあの子の言葉を聞いたとき、わたしは耳から脳が垂れそうなほど興奮した。殺してしまえるのなら殺してしまいたいとあの子は言った。殺してくれるのならば殺されてもいいとわたしは答えた。そうしてわたしは殺された。あの子がそれでどれだけ傷ついただろうと思うと、今でも耳から脳が垂れそうだ。まぁ、幽霊だから脳はないんだけど。それに残念だけれど私はその瞬間のことを覚えていない。

 先輩の首に張り付いた髪の毛が私の指の股にも絡まっていた。殺してくれるのなら殺されてもいいだなんて。意地の悪い冗談を言われて私はかっとなっていたのだ。指先が勝手に先輩の首を強く締め上げていた。消毒された水がぼろぼろ髪から落ちて先輩の頬をつたって、ぬらぬらと光っていた。体重が全然かかっていないような気がして私は焦った。先輩の指がゆるく手首に巻き付いていて、でもそれはただ触っているだけ。振りほどこうという意思が感じられなかった。まだ戯れだと思っているのだろうか。今、手を離したら、これもきれいな思い出にしてしまうのだろうか。もっと力を込めなくてはと思うのに、うまくできない。ああ、どうして私はこんなことをしているのだろう。ずるりと耳から水が溢れた。ひぐらしが鳴いている。沈んでいた世界が元に戻った。太ももに人間の体温があたっている。なんて馬鹿なことをしているのだろう。指を離すと先輩の首元は赤くなっていた。呼吸の音が聞こえる。口の開く粘膜の音がして、そこから声が漏れる。かわいい、と。確かに先輩はいった。なぜそんなことをいったのか、今でも分からない。そうして、気がついたときには私は水に沈められていた。ごぼごぼと耳に水が入って、たくさん入って、世界が本当に沈んでしまった。私は先輩に殺されたのだ。先輩がどうして幽霊になってここにいるのか、私は死んでいたのでくわしく知らない。正直どうでもいいことだ。今の私の願いは一つだけだから。

 わたしは何か大切なことを忘れている。

 どうか先輩が何も思い出しませんように。