すべての群れの客である

大地から5センチくらい浮きながら文章を書くよ!

有る程の菊投げ入れよ

その日のバイトは遅番で、私は昼飯を食べたばかりなのにたどり着いたなり腹が減った気がして、会議机においてあるお菓子を食べようと狙っていた。

「俳句は短すぎますよ」

誰かがFAXを手にそう言っていた。なるほど、と思いながら私は海老せんと思われるものを食べた。
海老せんだった。

「だって17文字しかない」

たしかにね。
海老せんの他に会議机には落花生のめちゃでかい袋があり、けれどこれに手を出すのはなかなか勇気と胆力がいるな、と思いながら額を照射するタイプの体温計で体温を図った。36度6分。ずいぶん健康になったものだ。

「短歌ならまだわかりますけど」

何年か前まで私もそんなことを持っていて、だから俳句ではなく短歌をやっていたのだけれど。31音に馴染むと、つくづく17音は短かかった。ちょっとやってみようかな、と思ってみてもぼうっと突っ立って止まってしまう。位置にも立てない感じ。

でも、ある日急に俳句を完全に理解してしまった。

いつだったから寺田寅彦夏目漱石に俳句とはなんぞや、と聞いて、その答えに寅彦がめろめろになった、という漫画を読んだのだった。自分の記憶だけをたよりに話すけれども先生が言っていたのはこんなようなこと。

俳句というのはレトリックの凝縮されたもので、それを起点に扇のように広がっていくものだ、みたいな、的な。

完全に理解してしまった、と私はこれはを読んで衝撃を受けたのだった。でも何をどう理解したっていうのだろう。全然わからない。俳句を理解したというより、自分がどうして立ち尽くしてしまうのかが分かったのかもしれない。あと俳句のかっけー!って思った。

何かそのものを表現しようとするから立ち尽くすんだろうなぁと思う。それを描写することで広がっていくような、さまざまな方向に放射していく起点を描かなきゃいけないのだろう、おそらく多分メイビー。

で、夏目先生はこうも言っていた。こればっかりは最初からできる人もいれば、修行してもできない人がいる、と。激しいなるほどを得た。俳句的な着眼とか着想とか着地とか、がんばっても少しも持てる気がしない。出来る未来が見えない。

でもやっぱり、広がっていく起点を描くってすこし憧れるよなぁ。なんてことを考えて、時間が来たので出勤した。

会議机の落花生は3日たってもまだ大量に残っていたので今日食べた。おいしかった。