すべての群れの客である

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さよなら私のガスオーブン

今日、ガスオーブンがいなくなった。

ガスオーブンはわたしよりちょっと年上と思っていたのだけれど、調べてみると実際にはわたしのほうが少し年上で、むかしむかし、母の働いていた中華料理屋の二階にあった喫茶店からうちへもらわれてきたのだった。

その喫茶店には銀色のすこし首の長いお皿の上にバニラのアイスがのっていて、その横に白いウエハースが乗ってあったのでよく覚えている。わたしはまだ小学校には通っておらず、首の長いお皿も初めてだったし、それが銀色であるのも初めてだったし、アイスだってほとんど食べたことがなかったし、なにより白い色のウエハースが斜めにおしゃれに乗っているのを見たのは初めてだったのだ。

わたしは母が仕事をしているのか、あるいは仕事ではないが何か用事があって階下の中華料理屋にいたのかは分からないが、その喫茶店のカウンターの席に座って、その銀色の皿のアイスとウエハースを食べていたのである。

カウンターの椅子は高くて足がどこにも届かない。その向こうには白いレースのブラウスのようなお洋服の上に、肩紐がとても華奢な黒いエプロンをした女の人がふたりいて、私の子守をしてくれていたように思う。

ガスオーブンはそこからうちにきたのだ。でも私はそれを長いあいだ知らなかった。ガスオーブンはずっとうちにいて、同じ場所にあったと思っていた。なんでも喫茶店を閉めるというので母がもらってきたらしい。

ガスオーブンはとても大きかった。とても大きな立方体で、子供の頃の私などまるまるそこへ入れると思うような大きさだった。天板が3つ入っていて、扉を手前に開けると、魔法のような音がする。他になんといって説明すればいいのかわからないけれど、ともかくそこでしか聞けない音がするのだ。ブォオン、となにかが灯るような音で、なんとも言えない、ガスオーブンが開かれるときだけの音。

うちの中でどこか別の世界につながる扉があるとすれば、きっとこのガスオーブンの扉の向こうだろうと私はちいさいころからよく考えていた。だからガスオーブンの扉を開くとき、いつも少し期待している。なにかすばらしいことが起きるような気がしている。

でもガスオーブンは今日いなくなってしまった。

もう長いことガスオーブンを使っていない。年に数回、お菓子を作ったり、グラタンを作ったりするときに使うけれど、それさえ年々減っている。ガスオーブンはとても大きく、台所のほとんどすべてを占めているといってもいいくらいの場所を取るから、もうそろそろいいんじゃないか、という話になったのだった。

一度その話を聞いた時には、なんだか寂しかったので反対したのだけれど、実際に考えてみると、たしかにガスオーブンは大きかったし、私にはガスオーブンをちゃんと使ってあげられるような生活の余裕はなかった。

それにこれは私のガスオーブンではなく母のガスオーブンなのだった。私が小さいころには、あるいは高校とそのあとくらいまでには、母はよくよくこのガスオーブンを使っていたように思う。トースターでも足りるくらいのちょっと小さなココットを作るのにだって使っていたし、まだ家族も多かったのでグラタンを作る時には大皿で、ガスオーブンを使っていた。なにより、しょっちゅうお菓子を作っていた。

特によく作っていたのはティラミスで、おそらくあれは90年代初頭のティラミスブームのころだったのだろう。うちのティラミスはスポンジケーキラム酒でひたひたにして、その上にエスプレッソかけて、マスカルポーネのクリームをのせるのだった。私は小さいころからそのラム酒に浸ったスポンジの部分が好きだった。あのように体の中に風が通るような食べ物は大きくなってもあまりお目にかからなかった。

母はアップルパイもよくつくった。シナモンをたくさん入れたりんごをことこと煮てコンポートを作って、パイ生地を広げる間にガスオーブンを温める。開くと魔法の音がするガスオーブンは、温めるときにはちかちかちかと少し繊細な点火の音をたてて、そのあとには轟々と燃えるような音を立て続けるのだった。うちのアップルパイの形は四角。真ん中にりんごジャムを乗せて、よっつの角を真ん中にあつめる。あつめたさきを少しひねって、ハケで黄卵を塗る。ハケの仕事はよく私にやらせてくれた。てらてらと光ってそれだけでもう美味しそうな姿になる。

もうひとつ、よく作っていたのがフランスパンでつくるアーモンドとキャラメルを乗せて焼いたやつ。今調べたらフロランタン風のラスクという食べ物みたい。これが本当に美味しくて、アーモンドとキャラメルのかかった表面はパリパリしていて、でもキャラメルが染み込んだフランスパンのところはじゅわっとしているのだ。いつか誰かがうちでも作ってみたけれど、うまくいかなかった、というようなことを言った。そういうとき母は「うちはガスオーブンだから」と答えた。

ガスオーブンだから、という言葉はよくよく聞いたような気がする。だから何がどうなってそうなのかわからないけれど、小さいころからその言葉を聞いていたし、実際に開くと魔法の音がするので、私はこのガスオーブンがあれば大抵のお菓子が美味しくなるのだと考えていた。

私が作れるお菓子は一種だけで、それはガトーショコラなのだけれど、これもおどろくほど美味しくできる。驚くほど美味しくできるので、私はずっと自分はお菓子作りが得意で好きなのだと思っていた。ガスオーブンでつくるガトーショコラは中の重みがちょうどよくて、外側のすこしチョコがコゲたような所がちょうどよく苦くて、ともかく何もかもいいかんじに仕上がるのだった。

あまりに美味しいので、バレンタインデーにあげたいから、というガトーショコラの影武者を二三回やったと思う。それぞれ別の子で、あまりお菓子作りが得意な子ではなかった。でもどうやっても美味しく仕上がってしまうので、そういう意味ではあまりいい塩梅の影武者ではなかったと思う。

ガスオーブンのオレンジ色の光の中で、ガトーショコラの上の部分が乾いてきて、ふわふわと動くのを見るのが好きだった。だからそう、うちにはもうガスオーブンがいなくなってしまったので、わたしはあの世界一おいしいガトーショコラを食べることができなくなったのだ。

どんなお店で食べたものより、いちばんに美味しかった。それはそうだ。わたしのガスオーブンが作ったのだから。あのガスオーブンは母のものではあったけれど、ガトーショコラを作るときだけは私のガスオーブンだった。

もし私にもうすこし甲斐性があって、おやすみの日にたびたびお菓子を作ったり、綺麗にみがいてやったりしていたら、今もガスオーブンはうちにいたのかもしれない。いろんなことをしてもらったし、いろんな時期のいろんな時間をすごしたのに、私はあのガスオーブンにとりたてて良いことをしてあげられなかったように思う。

ただ楽しい、明るい思い出があるばかりで、そう、うちの台所には出窓があって、午前の光がとってもよくはいるので、ガスオーブンの景色はいつでも明るいのだった。暗い暗い、ひどく重たい学生時代の一時期も、ガスオーブンのまわりは明るくて、幸せに似た景色をしていた。だから、やはりこの世界のどこかに別の場所へつながる扉があるのならば、あのガスオーブンの扉の中に違いないと今でも思う。

これまでもこれからも、私は私のガスオーブンを思い出す時には、明るい景色を見るのだと思う。ただ今は、もういないということに淋しさを感じてしまう。でも本当に、いつでも幸福に一番近い場所にガスオーブンはいたと思う。それは少し、私のガスオーブンにとってもいいことだったのではないかなと思う。そうだといいなと思っている。

いろんなものが写っているね

さよなら私のガスオーブン!