すべての群れの客である

大地から5センチくらい浮きながら文章を書くよ!

すべての仕事は売春である

 私は一度入水をしようとして制服のまま海に入り、振り返った時におじいさんが犬を散歩させているのを見て陸に戻ったことがある。

 本当に死ぬつもりだったのか、という点については昔も今も大変懐疑的なのだけれど(なにしろ私は基本的に生きることが好きだった)真剣であろうがなかろうが、まぁ腰まで海につかっていた、ということだけは事実だ。

 あまり口にしたくないが、その日は珍しく霧が出ていて、あたり一面真っ白でほとんど何も見えなかったのだ。言いたくない、というのは、それがあまりにも創作めいていて恥ずかしいからだけれど、よくよく考えてみれば、だからこそ私は海に入ったのであり、晴れていたら入らなかったに違いない。

 霧の中では、近くに人間がいるかいないか、そういうことは全くわからなかった。ただでさえ思春期というのは精神に他人の入りこむ隙がないのに、肉体的にも、つまり体の外側にも人間を感じられなかったため、腰まで海に浸かることが出来た、ということだ。

 足を進めるたびに「マジか」と思っていたので、やはり本気で死ぬつもりなどなかったのだろうと考えられるが、死のうとしてみるということと、本当に死んでしまうということとの間に、そこまで大きな違いがあるとは思えない。
 ただ、私に関して言えば、振り返ったのは、ここで振り返って見た先の景色が、生きて帰り、何かを書く時に役立つかもしれないと思ったからだ。その後の人生よろしくすべては打算なのであって、私はその打算を愛しているからそれはそれでよい。損得で生きればこそ上辺だけでも人に優しく出来る言うもので、本当は本当に心底優しくしたいけれども、自分が本当に心底人間に優しく出来ないのだと知ってしまった以上、訓練するしかない。修行は長く終わりがない。

 閑話休題

 霧の中の陸には黄色い大きなリュックと、弁当箱の入った黒いトートバックと、その前に揃えて置かれた従兄弟だか又従兄弟だかよくわからんお姉さんに貰ったお下がりのリーガルの革靴があった。

 そうして、犬がトートバックの匂いを嗅いでいた。
 よりにもよって、その犬は黒かったのだ。

 そんなことが、あっていいと私は思わない。つまり、霧の中、今まさに腰まで海につかっている女子高生の見る景色として、黒い犬というのは出来すぎると思ったのだ。実際その時にもそう思ったことだけは覚えている。でも、本当に犬なんていたのかしら。おじいさんなんていたのかしら。私は私の記憶が妄想なのではないかといつも恐れている。

 ともかく、おじいさんが首輪の紐を引っ張って、なおも匂いを嗅ごうとしている犬を先へ先へと進ませようとしていたのを私は発見した。そして、そんなことがあるのだろうか、とひどく衝撃を受けた。

 霧の立つ浜辺にリュックやら荷物が置いてあり、その前にご丁寧に揃えられた革靴が並べられていたら、普通、何か気にするものではないのか、と思ったのである。しかし、衝撃を受けている間に、黒い犬とおじいさんはすっかりいなくなっていた。

 詰まらないような、愉快なような気持ちになって私は陸に戻った。これは全く文学的な表現ではなく、真実、一世一代の入水に見向きもされなかったのは詰まらなかったし、それだけ小さな存在であるということは愉快だった。分からない。本当は寒いという事実に即した感情以外なかったかもしれない。

 あれから20年、は経っていないような気がするが、それに似た年月が経って、私はまだ全然生きていて、あの時と同じくらい死にたくないなと思っている。結局あのまま大人になってしまい、大人にはなれなかった。

 海に入ったのは17歳のときで、17歳には小説家としてデビューするはずだった。そうでなければ19歳で、もっといえば15歳で天才としてデビューしたかった。自分がなぜこうも権威や称賛を欲するのか、本当はもっとよくよく考えてみなければならないと思うけれど、なんだかフロイトが出てきそうなのでやめる。私がフロイトを嫌いなのは、入水する少し前に養護教員が私の状況をフロイト的解釈で切り捨てたからで、もしタイムマシンがあったらあの時のあの場所へ降り立ってあの養護教員の首を締めて17歳の私を助けてあげたいなといつでも考えている。タイムマシンがなくてよかったし、ないのは残念だ。

 閑話休題、でもないかな。これは本筋かもしれない。

 とりあえず、最初に(最初かな?)断っておくのはこれは私のメモリー語りと見せかけた今公開している小説の宣伝だということだ。急になんの前触れもなく入水のことを話しだしたのは、私が持っている手札の中でそれが一番キャッチーだと思ったからで、あとは、役に立つだろうと思ったあの時の景色が、フィクションとして全くどこにも役立たなかったのでここで無理やり突っ込んだのだ。

 みんな人の死ぬ話好き? 私は好きだよ。

 たぶん、本当はツイッターとかで熱心に小説の宣伝をするべきなのだけれど、自意識が非常に異常に過剰なので、上手に「読んでくれよな!」とか言えないのである。だからちょっとそのサイトから離れた所で宣伝してみる。

 宣伝はさ、やっぱりこう、貴様の話などだれも聞いていないぞ、みたいな鬼軍曹みたいな人が頭の後ろに出てきて意地悪するので難しいんですよね。いや、鬼軍曹はこんな話し方はしないかも。体を鍛えろと言ってくるかも。

 さて、この記事のタイトル。

 すべての仕事は売春である。と、ジャン・リュック・ゴダールが言っていたのだと、いつか岡崎京子が私に教えてくれた。敬称略。
 『pink』のあとがきで。引用します。

「すべての仕事は売春である」とJ・L・Ḡも言っていますが、私もそう思います。然り。
それ、をそうと思っている人、知らずにしている人、知らんぷりしている人、その他、などなどがいますが繰り返します。
「すべての仕事は売春である」と。

 これに私は、好きだ、という明確な言葉に押し込めたくないほどの衝撃を受け、そうだ、そうだ、と思ったのだけれど、実際何がどうそうなのか、説明してみせることは出来なかった。
 私は、何もかもを説明してみせることが出来ないから、私は小説を書いているのだ。なぜ私を二回言ったのか分かりませんが、もしかしたら大事なことなのかもしれないのでそのままにしておこう。

 あとがきはこう続きます。

そしてすべての仕事は愛でもあります。愛。愛ね。
”愛”は通常語られているほどぬくぬくとなまあたたかいものではありません。多分。
それは手ごわくひどく恐ろしい残酷な怪物のようなのです。そして”資本主義”も。


 しかし私は、私の生きている時代にはもう”愛”も”資本主義”もそれ自体がすべて消費されてしまっていて、かつてそういうものがあった、あるいは、今もどこかには確かに存在しているらしい、という微かな、まぼろしのような芳香と共に生きてきたように思う。

 恐ろしい怪物は恐ろしい怪物として消費されてしまい、今残っているものはそれらのレプリカなのだという諦観がずっとあり、その諦観の中で生き永らえてしまったせいで、もはやすべての仕事が売春であるなどという当たり前のことに、なんら意義はないのではないかと。

 売春とは何か。それを定義するべきだという方もいるでしょうが、ある種の言葉は全て解体により元の姿を失うものだと思っているので、ここではそのまま「売春」という言葉だけで話を進めます。

 すべての仕事は売春ですが、一個の人間にとってそれは常に「私の売春」でしかありません。もちろん、ここでいう私とは、俺とか僕とか某とかあたくしとかミーとか諸々。たとえ彼ら、彼女ら、あるいはそれ以外の誰かが同じ行為を行ったとしても、そこに同じ売春はない。

 私の売春。私ひとりにしか起こらなかった売春。

 今回、この「売春」を小説の題材に選んで書こうと思い、さてどうしようかと考えた時、実際に舞台を風俗店にするかどうか、ということについてかなり迷った記憶があります。

(職業物を書く時に実際の本職の人に何かを言われるのが怖い、というのが書き手には常にあり、それでも悩んでいたのですが、でも、同じ職業の人が同じ職業のものを書いても、そういった不満はでてくるので、その点はあまり考えないことにしました)

 で、悩んでいるときに考えていたこと。

 これはどちらかと言えば芸術についての話なのだけれど、私は芸術というのは自分ひとりにしか起こり得ない「感慨」を、自分以外に伝えるための術だと考えていて、で、その感慨を人に伝えるためには必ずしも、自らがその感慨を受けたそのものを書いたり、描いたり、歌ったり、する必要はない、と考えています。

 たとえば、これはいつもこの話を(脳内で)語るときに引っ張り出すお気に入りの喩えなんですけれども。たとえば。たとえばね。

 新宿の朝4時39分くらい。

 初夏の日が登ったばかりの雑踏の中のゴミ捨て場の中に、頭を突っ込んで眠っているのか倒れているのか判然としない若い人間(任意の性別)がいる。辺りにはカラスが何匹か鳴いている以外に生き物はなく、その夜に降った通り雨のせいでコンクリートが生黒く湿り、生き物の汗のような匂いをたてている。
 その日の、その瞬間の、ゴミ捨て場の中の、人間の腕に絡まった金属にあたる光。その光に、私は強烈な「感慨」を抱く。抱いたとする。

 けれど、この「感慨」を誰かに伝えるときに、それをそのままで描写することで十分に伝わるかというと、必ずしもそうではない。むしろ伝わらないということが、ままある。

 なぜならそれは、私一人にしか起こらなかった感慨だから。

 その場面をそのままで描くという方法も勿論あるだろう。ある人は詩的にある人は写実的にある人は簡略的に、描くだろう。そうしてある人は全く別のものを描く。その「感慨」と同じものを、全く別の素材で作り出す。

 それはもう、本当にその人の道でしかないわけで、自分ひとりしかその感慨を知らないのだから、自分一人で、どう表すのかを考えていくしかないのだ。とても、淋しいけれど。

 というわけで、私は「私の売春」ということを描く時に、何を素材にして書こうかとひとしきり悩んだのでした。

 で、結局舞台をピンクサロンにした。書いているうちにテーマ的なものも「私の売春」という所からはちょっと離れて「私たちの売春」という風に変わっていった気もするのですが、珍しく、なんかいい感じに書けたのではないでしょうか、と思っている。

 というわけなのでして、冒頭の入水の話は本当に何にも関係なかったな?という気持ちがなきにしもあらずですが、予告通り宣伝をしますね。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054889908320

 風俗嬢がボーイを殺して廃校でひと夏を過ごす話を書きました。
 更新の宣伝をツイッターで毎回こう言っていたので題名の『ガールズ・アット・ジ・エッジ』というのを忘れがちです。私が。でもめちゃくちゃ頑張って考えた題名なのでとても気に入っています。

 シルヴィアプラスの「Edge」とか、鈴木志保さんの『船を建てる<下>』に入っている「おかえりなさいこどもたち」の中に出てくる「絶滅したインディアン、コスタノ族の残したたった一行のダンスの歌」とか、岡崎京子さんの『リバーズ・エッジ』とか、お話自体もそういうあたりから影響を受けているので、こんな題名にしてみました。

 このお話はこうこうこうで、こういう気持ちでこうなんだぜ!YO!とやるのは非常に気持よいことですが、後から見直して、鬼軍曹のコバンザメ的一等卒が「お前の話なぞ誰も聞いておらん!」って言ってきてお風呂場で「あー!!」ってなっちゃうので、なるべく言わないようにしているんですが気持ちがよいのでちょろっと言ってみました。

 ずっと欅ちゃんの『世界には愛しかない』を聞いていて、ほうっておくと無限に人を殺してしまう話を書いてしまうので、すごく助けられました。愛はパワーだ。お話を考えている時に『徳山大五郎を誰が殺したか?』を見てそれにも励まされた。大好き。

 あれ、欅ちゃんの話になっているな。ともかくそんな感じでいつもどおり尻切れトンボにはなったけれども、あともう少し読者選考の期間があるみたいなのでがんばりたいと思います。そんなこんなで、この記事をこれまでです。なんか、あれだ、noteにも締めの一言が欲しい。このへんでネタを下げさせていただきます、みたいなやつ。募集してます。

 今日はシナモンロールを食べましたが、昔食べたシナモンロールの記憶が忘れられず、そのシナモンロールを想像して食べるので、いつもがっかりしてしまいます。じゃあね!