すべての群れの客である

大地から5センチくらい浮きながら文章を書くよ!

『熊本くんの本棚』書籍版を読んだよ

 どやってトップ画を自分で撮ってみたけれど、サイズを間違えて妙な具合になってしまったよ。こんばんわ。みんな元気かな? 元気だといいな。

 さて、先日カクヨムコン4のキャラクター文芸の大賞を取ったキタハラさんの『熊本くんの本棚』が発売されたよ。買ったよ。本棚に並んでいるのを見た時、なんだか得も言われぬ感覚に陥りました。エモってこういうこと?

 そうかもしれない。

 私もカクヨムコンの4に参加していたのですが、キタハラさんとカクヨムというのは、私の中ではなかなか切っても切り離せない存在でもあります。
 もちろん非常に勝手な感慨でなので、説明しますね。

 私はもう15年も公募に落ち続けている恥ずかしヒューマンなのですが、去年の今頃からちょっと前くらいに、思い立ってWEBで連載してみようと思ったのであった。

 ちょっと違うな。
 100万円をくれるコンテストがあるから、急遽カクヨムという全然しらないWEB小説という世界に足を踏み入れよう、と思ったのであった。

 それ以前の私は書店でバイトをしていることもあり、WEB小説について「いい加減異世界にいくのはyametekure!」と思っていた。なんか急にローマ字なってしまった。今では勿論、異世界小説のすごさというものを思い知っていて、端的にすげえな! という感情以外はないのですが。

 で、まぁ、私はWEBに耐えられる文章を書けるのか? ということにちょっと悩んだりしていた。でも今すぐ登録しないとカクヨムコンには間に合わない! と思って登録した。そこで、たまたま偶然キタハラさんの小説に出会ったというわけだ。

 正直、基本的にだいぶ記憶喪失なので、詳しい邂逅の現場が思い出せないのだけれど、オールザサッドヤングメンの戯曲版を読んで「え!!!」と思ったのである。

 まずショックだった。こんなに面白いものを書く人が野良的に世界には存在するということにびっくりした。そして、私は馬鹿なんじゃないか? と思った。こんなに面白い人がもしプロでないのならば、私は夢を見ていると思ったのだ。

 で、いやいや、と持ち前のポジティブをひねり出して、この人が評価されている現場で自分が評価されたらとってもすごいことなのではないか? というようなことを思い、カクヨムコンがんばろー! と思って頑張ったのである。

 なんだか、よいしょしているみたいで申し訳ないのだけれど、まぁそんなことを思ったのだ。私はその時カクヨムのことを全く理解しておらず、評価されている、されていない、という基準がよく分からなかった。今でも分からないので、この文章は意味がなかった。

 さて、そんなこんなで『熊本くんの本棚』である。

 先述したように、私は健忘さんなので、当時のことをよく覚えていない。くわえて、カクヨムのことをも良く分かっていなかったので、レビューとかも残さなかったわけだが、熊本くんの本棚のWEB版を読んでいるはずだ。

 そのころは連載していた同じキタハラさんの『オールザサッドヤングメン』の小説の方に首ったけだったので、うおー! くらいしか感慨を持っていなかったのだと思う。

 で、書籍版を手にして、やっと意識ある自分として通しで読んだというわけだ。ひとつの小説として読めた。WEBの時は文章として読んでいた。

 という所からこの作文は始まります。
 相変わらず長いね、前置きがね。


 だいぶ後から知ったことだが、熊本くんの本棚は私がカクヨムコン4で出していた「キャラクター文芸」というくくりで大賞を受賞していた。よく分かっていなかったので、これが大賞と聞いたとき私は素直に大変喜んだが(オールザサッドヤングメンじゃなかったことに対しては驚いたけれど)今考えるとなにかこう、くそー! みたいな気持ちになるべきなのかもしれなかった。全然、今でもまったくそう思えないので、私には何かが欠落している。

 出版社さん側からの講評を読んだ。
 全くピンと来なかった。

https://kakuyomu.jp/contests/kakuyomu_web_novel_004

 これだ!

 前段のキャラクター文芸というものの、多様性と親和性みたいなところは、自分のものも鑑みて、うんうん、そうだなー。え? 答えはないの? みたいな気持ちで楽しく読んでいたのだけれど、熊本くんに対する評価。

「きもちわるい」

 これが分からなかった。
 これは帯にもずどーん! と出ているので、たぶん結構一般的な感覚なのかな? と思われる。気持ち悪い、という言葉と似た言葉で語っている人もいたので、そうなのかーと思う。

 書籍版を最初から最後まで読んでみて、何か分かるかと思ったけれど分からなかった。気持ち悪い、に似た感覚を一瞬も私は抱けなかった。

 たぶん、それが『熊本くんの本棚』という本の正体なのだと思う。

 この本に出てきている人は、恐らくそういう風に「気持ち悪い」と思われてきた側の人間だから。いや、私は当たり前のことを言っているな。つまりどういうことかと言うと、我々のような「気持ち悪い」と言われてきた側の人間を描いているということだ。だから分からないのだ。うん? 同じことを言っていないか私は? 大丈夫かな。

 気持ち悪い、ということの正体は大体のところ三種類くらいだと思っていて、三種類といったのは全く当てずっぽうだけれど、今から三つあげてみようかと思う。

 第一に、生理的に受け付けない。遺伝子的にぞわっとする。
 第二に、自分とかけ離れすぎていて理解できない。
 第三に、認めたくない。

 わかんない。適当にそれっぽく言ったので意味が重複しているかもしれん。私は列挙するのが好きなのだ。第一とか第二とか、中身を考えてから上げるべきなんだな本当は。

 気持ち悪いというのは、分からない(分かりたくない)、という感覚が結構多く占めているような気がする。自分の体と相反している(あるいは同調している)ものに対して、離れてしまいたいというような感覚なのかな。わかんない。多分だけど。

 例えば、副題にも入っているけど「ゲイ」という部分を相反するものとして捉えている人がいるのではないだろうか。いるのかな? たぶんいるでしょ? いるんじゃん?

 だって多様性大事よ~みたいなことを言っている人でも、無意識にめちゃくちゃ差別的な思想持ってるじゃないですか。もちろん、私もその感覚を持っているはずなので、妙なことを言わないように注意したいのだけれど。

 でも、無意識を直すのは難しいよねー。これはただの感想。

 あるいはこの話の「宗教」というようなものに関してとか、性的なことに対してとか、血の繋がったもの同士のやりとりであるとか、内なる声と、外からの声に対してとか。

 相反する、分からない、理解出来ない、というような感覚があって、そこからきた「気持ち悪い」なのかなって。私はそう思ったのだけれど、これは私が「気持ち悪い」を分からなかったから言っているので、私はもしかして素っ頓狂なことを言っているのかもしれない。 

 で、なんだかそれはとても正しいことのように思える。今急に思った。本当はこれに対して、でも私は、と言うような論調にしようと思ったのだけれど。

 本を読むというのは、そういう気持ち悪さに出会うためでもあるじゃないですか。自分の知らないこと、知らない感覚、知らない事象、自分の内からは絶対に出てこないであろう感情。そういうものを受け取るために物語存在すると、私はそう思っている。

 そういう意味もあって、この本の帯には「気持ち悪い」というキャッチが付いているんじゃないかな。単に、訴求力もあるしね。編集さんは色々考えているんだろうな、と最近よく思う。

 さて、お話についても書こう、え、っていうかびっくりしない? もう3000千字だって。私は今日も500文字くらいしか文章を書けなかったのに、これを書いたことで私は今日「よくやったな!」という気持ちで眠れるな。
 自分の内からの言葉は書いてないけどな!

 でも、そう。与えられる感慨というのは大事だから。本当に。

 熊本くんの本棚、これを読んでてくれている方は読んでいる人か、内容しっている人が多いと思いますが、ざらーっとあらすじを言うと、大学生のみのりちゃんが、どこか浮世離れしているイケメンの熊本くんを観察するパートと、その熊本くんが書いた小説(佐久忠作)、という大きくわけで二つのパートでお話が展開します。

 『こころ』だーー! と思ったじゃん? 思ったでしょ。私も思ったー! 私は誰と話をしているんだ?

 キタハラさんもインタビューで『こころ』が念頭にあったと言っておりましたので、これは正解なのです。

(ぜんぜん関係ない話なんだけれど、私は高校のころ『こころ』の読書感想文を規定3枚とかのところを10枚くらい書いて、先生に引かれたことがありましてよく覚えている。文章長くなっちゃうの昔からなんだねーわかる~)(男同士の愛の話だ。女は物として扱われている、というような論調だった。わかる~)

 正直なところ私は『熊本くんの本棚』のみのりちゃんパートがなかなか上手く読み進められなかった。これは色んな本でよくある。文体が体に入っていくまでちょっと時間がかかるみたいな。

 で、その後の熊本くんの小説のターンになって、加速度的に文体が体に寄り添ってきて、そこがこの小説のひとつの強みだなーと思う。いいよね。文体が途中で変わるの。お得だよね。

 えーっと。何を話そうとしたのか忘れました。

 さっき我々のような「気持ち悪がられていた側」の話だと言ったのが、この小説を読んで、分かる! と思う瞬間がいくつもあったからです。以下みのりちゃんと熊本くんの会話を引用します。

「なんでそんなことわかるのよ」
「なぜなら、僕は作家だから」
「ごめん、ほんとうに、意味がわからない」
「僕が考えていることとか、思っていることっていうのは、妄想とか夢じゃなくて、そうなんだ、って、わかったんだよ」


 引用終わり。
 これ、ここ、ここものすごく分かりが強くないですか? わかるー! めっちゃ分かるよね! 分かる分かる。

 ここは個人的にすごくよく分かるな、と感動した部分なので、どうしても引用したかった。作家、というかある種の人間にとっての「わかる」というのは、それは本当に分かるのだとうことを、こんなに分かりやすく分かるということが、うん? 分かるがゲシュタルト崩壊した。

 こういう感覚でもって、このお話には「分かる」という部分が相当数あって、それがとても嬉しかった。例えばちょっと辛いけど、油井さんと篠崎くんの噂をするおばさまのところ。

 ああいう人たちって、ところかまわずなのね。

 この一言。
 この偏見に満ちた目に晒される瞬間のこと。世界にはそういう瞬間が毎分毎秒訪れているけれど、そういうものを形にして、文章にして、物語にしてくれるということは、とても意味のあることだ。というか、私は書く側の人なので、これがすごいと思う。

 嫌な人(少なくとも自分にとって嫌な人のこと)を書くというのは、すごく大変だし、難しい。その人にも主義主張があるんだから、とか思ってしまうし、誰かを悪者にしているみたいで気が引けるし、でもそういう人がいるんだっていうことを「書く」ことは、あるいは「書いてくれる」ということは、それだけで救いだ。

 この人は分かってくれているのだ、と「分かる」ことは、芸術、とくに小説を読むという行為の重大な意味だと思う。気が付かない人は気が付かないからね。書いてもくれないわけですよ。拾ってくれない。

 そういう、拾ってくれる場所が沢山あって、あと単純に私は油井さんと篠崎くんについてもうちょっと深く考えていたい。とても。あー! ってなる。とても。

 やっぱり書きすぎじゃない? そろそろ先生に引かれる分量になってきてない? でも、ぜんぜん、この作文の着地点が見つからないんだ。いつもそうだ、つまるところ、文章が長くなるのは、着地する場所が分からないからだ。

 これを書こうと思ったのは、ぜひとも『熊本くんの本棚』が爆発的に売れて欲しい、という願いからであって、それはどちらかというと自分本位な祈りだ。

 こういう本が出る、しかもカクヨムコンの大賞で出るということは、非常な希望だ。私は懲りずにカクヨムコン5に参加しているけれども、やっぱりなんか場違いなんじゃねえか? と思わんこともない。というか毎秒思っている。今も思っている。

 そんなとき、最初にこれを読んだときのことを思い出すのだ(いや、あの、まぁ、記憶は喪失しているのだけれど)場違いだとか、変だとか、気持ち悪いとか、そういうのは価値があるんだよって、誰かを救うんだよって、ね、そんなことを思うわけです。

 というわけで、やっぱり尻切れトンボのような気もしないでもないけれど、ここで終わりにします。ちょっと切れちゃったので、トップの写真を貼っておきます。熊本くんの本棚in私の本棚!(うそです見栄張ってちょっと似合いそうな良いひとたち掻き集めました)

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 みんな!ぜひ!熊本くんの本棚を買ってね!もう買ってるか!

 またねー!