すべての群れの客である

大地から5センチくらい浮きながら文章を書くよ!

『バジュランギおじさんと、小さな迷子』を見たよ。

 大分前に書いていたものを途中にしてあった。以下途中まで少し前に書いたもの。


 今日も映画の時間を間違えて覚えていた。その前もその前も間違えて覚えていたのだ。でも、一体どの部分で間違えるのだろう。

 そもそも見間違えているのか、見たものを体に取り込む過程で入れ違ってしまうのか、上手く取り込んだものを取り出すときに間違えているのか。

 そんなのは分りっこないので考えるのはやめにする。

 なんの情報も仕入れず『バジュランギおじさんと、小さな迷子』を見た。なんの情報も、というのは嘘だ。いきなり嘘を吐いてしまった。

 怖いか怖くないか、これだけはちゃんとチェックするようにしている。怖い可能性があるものは絶対に見ないようにして欲しい。

 『カメラを止めるな』を劇場で見て恐怖のあまり軽いパニック発作を起こしたので、それだけはちゃんとチェックしようと思っているのだ。いつまでもそのことを根に持っていて恥ずかしい。でも後半がめちゃくちゃ大好きな感じで、後半だけみたいけれど後半だけみてもどうしようもないよなぁ。おわり。

 まぁ自分が怖いかな? と思っても人に「怖くないよー」っていわれたら信じてしまうのであまり意味のないチェックではある。

 これはトルコの迷子の映画なんだな! という情報だけ持って見に行った。

 パキスタン人の女の子と、インドの青年のお話だった。本当に、どの時点で間違えて覚えるのだろう。トルコは出てこない。

 私はミュージカルが本当に駄目で、歌は好きだし、踊りも好きだし、映画で流れる音楽も大好きだし、ミュージカル風の演出も好きなのに、ミュージカルは駄目だ。

 これは偏見というか、嫌いでいたいという願望が半分(劇団〇季的人間が苦手)あとの半分はどうやって見ればいいのか分らなくて、物語に興味がなくなるから、という理由である。

 なぜ今まで普通に話していたのに歌うのだろう。歌ったあと、この人たちはどうやって日常に戻るのだろう。それともこれは妄想のシーンなのだろうか。というような野暮なことが気になって、というより、そんなことを考えるのは野暮なのだ、という意識が邪魔で物語を楽しめない。

 で、私はこの映画がインド映画であるということを知らなかった。

 インド映画と言えば少し前に『バーフバリ』が流行っていて、そういえばインド映画って見たことないな! みーよお! と、るんるんTSUTAYAに借りに行って、見始めて15分で気が狂いそうになったので見るのをやめて返したのだった。残念だった。

 あのとき、もう一生インド映画は見ないだろう、と思ったが、今回見た。偏見はよくないなと思った。

 信仰と愛のお話だ。
 いや、信仰と愛と(私にとっては)関係性のお話だった。

 正直、この映画も急に踊り出したとき「えっ!」とは思ったけれど、それは「なんだこれ、まるでインド映画のようだぞ!」という驚きであって「お話の途中で急に歌って踊り出すやつ」への嫌悪感はなかった。

 女の子が一歩引いたところで、その「歌って踊りだすやつ」をなんじゃこりゃ? って感じで見ていることで、物語が保たれていたからだと思う。

 映画全体に、ひょんなことで不思議な世界に紛れ込んでしまった女の子の絵本、みたいな雰囲気がずっと流れていて、だからその「急に歌って踊り出すやつ」も異文化としてかなり好意的に摂取できたのだと思う。

 そこからは好意で踊りも乗り切れた。あと、やはり元々歌と踊り自体は好きなので、踊り出す以前に好意さえ積み上げられれば、ミュージカルも楽しむことが出来るのかもしれないと思った。インド映画がミュージカルに入るのかは知らない。

 と、ここまでが以前までに書いた文書である。
 はちゃめちゃに面白かったので、ものすごく伝えたくて書き出したのに眠くて寝てしまった。眠くて寝てしまったら次の日がきて、次の日の生活をしていたら一ヶ月くらい経ってしまった。

 しかし、今もじんわり思い出すくらいに面白かった。

 この映画の大前提として、パキスタンとインドの不仲(と簡単に言っていいものか分からないが、勉強が足りなくて他に表し方が分からないので、便宜上そう表現しておきます)があるということを言っておこう。

 パキスタンイスラム教徒が多く、インドはヒンドゥー教徒が大多数である。

 大筋としては、喋ることが出来ない(おそらく精神的なもの)パキスタン人の女の子が、強い冒険心のために母とはぐれ、ひょんなことから国境を越えてしまい、インドで迷子になるという筋だ。

 そして、インドの町中でなんか踊っているバジュランギという男と出会い、このバジュランギが奮闘し、信仰と愛の力でこの女の子を故郷まで送り届ける(届けようとする)というロードムービーである。

 これがねええええ!!! 本当に良かったんですよ。私はいま思い出して興奮していますよ。ねえ!! 伝わるかしら、この興奮!

 まさに信仰と愛でもって、バジュランギはこの難題――女の子は喋れないので、どこから来たのかが大分中盤まで分からないのだ――を乗り越えていくのですが、そこがまた面白くて。

 というのも、この映画の一番の障害もまた「信仰と愛」なんですよ。

 バジュランギは敬虔なヒンドゥー教徒で、敬虔であるということ以外は何をやってもだめだめな(でもずっとめっちゃ強かった。インド映画だから?)感じの男なのだけれど、なんとかかんとかして、このままはちゃめちゃに頑張ったら意中の女の子と結婚できるかもね! みたいな状態なのですね。

 けれど、この謎の迷子の女の子を見つけてしまったばっかりに、結婚が危うくなるんです。この子を送り届けたい、けれど婚約者を愛している。そしてもう一つ、これは途中で気が付くことですが、しかしこの迷子の女の子は異教徒だぞ、という状況。

 一人の人間として、困っている女の子を助けたいという気持ち。愛する婚約者の望む自分でありたいという気持ち。自分の信じる神に誠実にいたいという気持ち、規律を破りたくないという気持ち。

 一つ一つを見れば、どれもプラスの方向の気持ちなのだけれど、現実と照らし合わせると、それが全て障害になってしまう。

 きっとそれ自体はとてもありふれたことなのだろう。だいたい、何かを信仰するということは、何かを信仰しないということだし、誰かを愛するということは、それ以外を愛さないということなのだから。

 けれど、この映画はその信仰と愛の弊害を、まさに信仰と愛で乗り越えていく。

 何かを信仰するということは、また誰かを愛するということは、その他を排除するのではないということを、もう本当に壮大に、そして圧倒的な萌えでもって訴えてくるんですよ。

 今から萌えの話をしますね!!!!!

 いやまじで! まじですマジ! あのね、この映画、すっごいね、萌えの映画だから! 萌えとか今時言わないのかもしれないんすけど、私ね、実はすごい好きなのね。萌えるのが。みんなそうだと思うけど。

 関係性の話だ、と書いたのはそのことです。圧倒的関係性萌えの強さが強い! なんかもう文章とか整えるのやめましたけど、マジで!

 まずねえ! 幼女とおじさんね! 好きじゃん! みんな好きじゃん! 私も好きなんですけど、この映画ね、女の子喋れないから喋らないんですけど、そこがまたねえ! 超絶かわいいんですよね。うなずき一つとっても激烈にマブいですから。正解だったら手をあげてねー、みたいなところがあるんですけど、その手の上げ方ね、手を上げてからの、にっこにこーがね。そんな可愛い女の子とおじさん(つっても青年か?)の旅ですよ。

 KAWAII!!

 そしてですね、この女の子はバジュランギの婚約者の家に厄介になるんですけれども、その婚約者の年の離れた弟かな? 5、6歳とかくらいかな? の可愛い男の子がいるんですが、その男の子とね、迷子の女の子が年が近いのね多分。それでね、仲良くしてるんですよ。喋れない女の子にいろいろ教えてあげたりするのね、そうじゃないよー、とかって言ってね。もうね、すっげー可愛いの。男の子すっごいフラットで、途中なんか女の子が追い出されそうになったりとかして、大人たち結構やべえ剣幕なやべぇ感じなんだけど、この二人は「ばいばーい」みたいな感じなんだけど、同時に男の子は「ここにいれればいいのにねー」みたいな感じでね!

 KAWAII!!!

 あとね!
 いや、めっちゃあるからね、関係性萌えポイント無限にあるからこの映画。あとね、中盤から事件報道記者とその部下みたいなちょっとしたコメディ要員というかアクション要員みたいなのが出てくるんですけどね、それがまたポンコツ上司とポンコツ部下みもあり、後先考えずに走ってく先輩をまじかよーみたいな感じで追いかける部下みもあり、かわいいんですね!

 でねえ!
 この出てきた時には「お。コメディ要員きた」みたいな温度だったこの事件報道記者がね、どんどん話に入り込んでいくんですよ。その辺りも秀逸だったなー。基本的にめっちゃくちゃ脚本がよい(って言えばいいの? なんか映画に詳しい人が言っているイメージ)んですよ。

 王道なんです王道。完全に王道で、思った通りの話なんですね、まぁそれがあったらそこにいくだろうし、その属性だったら最後はこうだろうみたいな。あーはいはい、その障害を乗り越えるんですね最終的に、みたいな感じで実際そうなるんだけど。

 筋はめちゃくちゃ大事だし、筋じゃないんだ! って思いましたね。

 面白くするための仕掛けがたぶん、めちゃくちゃ一杯あったんだと思う。私は面白くする仕掛けに明るくないので、そのスキルが欲しくていま映画いっぱいみたりしよーつって見てるのでまだかみ砕けてないんですけどね、予想通りの話の筋でここまで面白いって、すげーよね!

 萌えの話に戻りますが。
 この事件記者が絡むことでね、迷子の女の子と、それを送り届ける青年と、それを見ている男の話になるんですよ。この中に第三者目線萌えの人いますか? っていかこれ読んでる人いますか!

 そこのあなた! 今この瞬間に世界でこの文章を読んでいるのはたぶんあなた一人ですよ。私はよくこのフレーズを文章中に入れるんですが、どう考えてもあなた一人だけですよ。たぶんね。そんなあなたに私は問いかけていますよ。第三者目線に萌えませんかと!

 私は萌えるんですね。萌えるといわざるをえないな! みたいな気持ちになっちゃうわけですよ。外からの目線。そしてね! その外にいた見ているだけの存在だった人間が、動く時のあの、えもいわれぬ感覚。

 エモい!!!!!!!!!

 いまマジマジ。この映画で誰に一番萌えたかって、この事件記者ね。最後の手前ではこの男のために泣いたね私は。そして最後に何で泣いたかっていうと、やはり信仰と愛のためにですよ。

 形としての信仰と愛ね。

 そう、そうなんですよ。信仰とか愛とか、どうやっても観念的というか、形にならないものだ、むしろ形にならないから尊いものだ、と思いがちですがそうではなくてね。

 信仰と愛が正しく形を持ったら、こんなにも素晴らしい景色が待っているんだよ、そういう可能性をちゃんと我々はもっているんだよ、ということを教えてくれる映画でした。

 正しく、という言葉はあまり適切ではないのかな。そうかもしれない。正しさを尺度にすることは、時にはとても危険なのだ、ということも教えてもらった気がする。

 そもそも日本は国境も地続きではないし、色んな意味で多神教だから、あまりピンとこない部分もあるんだけれど、世の中にはそういうことが実際に起きているじゃないですか、そういう恐ろしいことが。恐ろしい出来事が。

 けれど、誰も間違ったことはしていなくて、むしろ正しさを求めた結果でそうなってしまっているわけなんですよね。たぶん。正しさは障害になりうるということですよね。

 だから正しく、という言葉は不適説かもしれない。実際、この映画のラストの解答は正しくないんです。不正なんですね。そういう意味で、この映画は正しさを選択していない。

 でも美しかったな。とても美しかった。喜びを感じるラストでした。これがミュージカルを純真に楽しめる人間のみる景色なのか、とも思いました。素晴らしい景色だな。

 というわけで、長くなりましたが、とっても面白く、勉強するところのたくさんある映画でした。最高だぜ!

 以上! いま世界でただ一人これを読んでくれているそこのあなた。ありがとう。あなたの明日が美しくありますように! 祈っています。

 そういえば祈りの映画でもあったな。

 おしまい。