すべての群れの客である

大地から5センチくらい浮きながら文章を書くよ!

『象は静かに座っている』を見たよ。

 見たくて見に行って見た。なんでそんな当たり前のことを文章にしたかというと、なんだかそれが重要なことのように思ったから。

 見たくて見に行って見た。

 『悲情城市』がめっちゃ良かった、と話したら職場の映画人が、じゃあこれを見に行ってみては? と勧めてきて、その人が仕事中に映画のページを開くので「仕事をしろよ!」と思ってから「マジで好きそう」と思って「別にあんたに言われたから見に行くんじゃないんだからね!」と思った。

 今回の記事は短めに終わりにするつもり。まだまだ全然血肉になっていないし、咀嚼し続けられる映画だから。なにか確定してしまいたくない気持ち。

 さて『象は静かに座っている』である。

 私は象が好きだ。
 というのは我が町にはかつて象がいて、その象を好きになることで、生きながらえてきたという経緯があるからだ。この好きというのは感情ではなく宗教で、つまり、私は象を好きであると信じることにしたのだ。

 今、象は死んで、私は生き残っている。

 そういえば、昔は良い作品に出会ったりして、それを作った人がとっくの昔に若くして自なんかしていると(大抵は小説家か画家だ)ほらね! と得意げになっていた。若くして死ぬこと以上に、人生の価値などないと思っていた。

 でもこの映画の胡波(フー・ボー)監督が29歳で自殺したと聞いたとき、なんだか淋しい気持ちになったのだ。それで、私は生きながらえたのだなと思った。

 生きながらえてしまった、と思いたいところだけれど、どうだか。

 象の話。
 何も、ただ町に象がいたから象を好きになったわけじゃないのだ。我が町の象はとても小さい檻に一人で住んでいて、日がな一日、同じルートをぐるぐる回ることで時間を過ごしていた。

 私は暇があれば檻の前に行き、ベンチに座って暗い顔でそれを眺めていた。時々思い立って近づいてみると、象はこちらに鼻を伸ばしてくる、なんてことはなく彼女はただぐるぐる回り続けるだけなのだ。

 私はその檻の前で得た感慨は、象は大きいということだった。

 これは世界に対する質量の話で、彼女にはその檻はどう考えても小さ過ぎたけれど、私という存在から見ると、ただただ彼女は大きかった。こんな存在の仕方があるだろうかと思った。その頃の私は気が付くと小さな虫を殺してしまう悪癖があって、そのことを考えると妙な気持ちになった。

 私は象を殺せないだろうと思う。大きいというのは、つまり、そういうことだと思ったのだ。


 さて『象は静かに座っている』のお話。

 上の象の話は特に何かに繋がると思って書いているわけではない。ともかく、私は今でも象が大好きで、象という名が題名についているだけで惹かれるものがあったのだ。題名がよい。とてもよい。素敵。

 前情報は長いということ。真偽は不明だが、その4時間の長尺を、プロデューサーに削れと言われて監督が自殺したということ。それくらいだった。予告のマッチを上に投げるところを見て、どうもこれは本当に好きな映画だなと思った。何してるのかはよく分からなかったけど。

 で、見た。

 長かった。見ているときは思っていたけれど、こうやって見たあとに考えると、長くなかったように思う。リアルタイムで長いと思っていたのなら、そちらのほうが正しいのでは? と思わなくもないけれど、でもやはりこれは「長い」という感覚ではないように思う。

 その辺りはまぁいいや。映画の話。
 私が説明するよりも正しいと思うので以下にストーリーを引用しますね。

時代の流れとともに炭鉱業が廃れた中国の小さな田舎町。少年ブーは友達をかばい、不良の同級生をあやまって階段から突き落としてしまう。不良の兄は町で幅を利かせているチェンだった。チェン達に追われ町を出ようとするブーは、友達のリン、近所の老人ジンをも巻き込んでいく。親友を自殺に追い込んでしまい自責の念のかられているチェン、家に居場所がなく教師と関係を持つことで拠り所をみつけるリン、娘夫婦に邪険にされながらも老人ホーム行きを拒むジン。それぞれに事情を抱えながらも、遠く2300km先の果て満州里にいる、一日中ただ座り続けているという奇妙な象の存在にわずかな希望を抱き4人は歩き出す――。

 ブーという少年と、リンという女の子、老人のジンと、チェンというヤクザまがいの青年、というのが主要登場人物で、最初のうちは一人一人の生活を追っていて、時々それぞれの接点があったりして「お」と思う。

 たぶん、この映画で触れられるのが撮り方の話だけれど、私は映画に全く明るくないので、その辺りのことを技術的に詳しくは語れない。
 ただ『悲情城市』を好きだという私にこの映画を薦めたのはなんとなく分かるような気がする。似てはいないけれど、根底に一つ同じものを持っているような気がする。何もかも気がする。

 『悲情城市』の記事で( https://note.com/eleinutiger/n/n63f49eb232d3 )私はあれを「説明的な画がない」というような言い方をしていたけれど、これもそういう部分はあるような気がする。(以下、私の文章には全て「気がする」という語尾をつけてください)

 説明的な画がない、というのは説明のためのカットがないということで、ご飯を食べている人がいたら、そのご飯を移すとか、そういうことです。そういう意図を持ったカットが少ない、という意味では共通した何かを持っているのかもしれない。

 うーん。別に比較して語る必要は全くないのだけれど、比較することで双方の良さが体に迫ってくるのではないか、と思ってはじめてみたのだ。まだちょっと早いのかも。ただ、全然似てはいない。

 この映画を見ている間中、ずっと「映画だ!」と激しく思っていた。この映画だ! という感想の中身を解明したいんだけど、まだ全然咀嚼できていないので無理。ともかく、この映画はずっと人間が映っている。特に顔と後ろ姿。

 顔や後ろ姿の向こうには背景があって、いや、背景っていうのは変だな。例えば、ヤクザまがいのチェンという青年は、親友の妻と不倫していて、それを発見した旦那が目の前で飛び降り自殺しちゃうんだけど(冒頭)それを見に階下まで行くチェンの背中が写っている。

 背中の向こうにどうやら倒れている男がいる。倒れている男がいる、というのがぼんやり分かるくらいの画で、やはりはっきりと移っているのは彼の背中であり後頭部。彼の見ている世界としての画ではなくて、彼の背中、そしてその向こうにぼんやりした世界。

 移っている人物と、世界が分離している。分離、という言葉はちょっと違うかも。同じ場所にちゃんとある。世界の中に人物がいる。同時に。でもカメラが追っている(見ていると。追っている、という感じもしないのだけれど)人物が、何か圧縮されているような感じというか、クソみたいな世界が確実に人物の向こうにあって、それもぼんやり見えているのに、離れる、というのではなく人間のほうが圧縮されている感じ。

 かと言って、圧迫感があるというのではない。閉塞感? 上手い言葉だな。そう、閉塞感。閉じて、塞がれている。人物の後ろの世界は開いていて、画的にもぼんやりとしていて、ゆるっとしているのに、意識が塞がっていく感じ。でも、圧縮されて、塞がれて、それで爆発をするような映画ではない。

 唯一、それらしいシーンは女の子×バットという最高のシュチュエーションのあのシーンだと思うのだけれど、実際あのシーンで私はものすごい興奮してしまったわけだけど、それは私の性癖の話で。実際盛り上がりのシーンではあるのだけど、場が進むシーンではない。

 もちろん、進んでいるわけだけれど、だってバットで何かを殴ったとしたら、絶対に進むでしょ。進まないことが困難じゃん。なのに、それは進むシーンではないというのが、自分で何を言っているのか分からなくなった。

 クソみたいな世界。一面が荒れ地で、救いはない。というより、救いを求めるという行為が世界にないみたい。人生こんなもん。クソみたいなまま生きていくしかない。みんなそう。みんなの人生が等しくこんなもんで、死ぬまでこんなもんなんだ、ということの閉塞感。

 とっちらかってきたので、キュンとした部分を話して終わりにしますね。

 この映画はあらすじにも出ている、遠く離れた満州里にただ座っている象がいるという噂? みたいなものがあって、その象を見にいこうとする人間のお話だと思うのですけれど。その象とはゴドーだ! みたいな何かそれっぽいことを言いたい訳ではなく。

 この映画を見て、私が一番感銘を受けたのは、ヤクザまがいのチェンだけが「象を見に行けない」という所です。

 見に行かない、と思わなかったのはなぜなのかな、と思ったりして。

 実際、彼は満州里に座っているだけの象がいる、という話を親友に聞いていて、それについて何かを思っている節はある。だからこのクソみたいな世界の中で、その象を見に行く、という話の俎上に乗っても全く可笑しくない人物な訳ですけれども、主要人物の四人のうち、彼だけが象を見に行かないんですね。ま、現実として「行けない」常態になってしまうわけですけど。

 その前に読み返していたからか、ものすごくリア王の「道化」を思い出した。シェイクスピア劇には道化が出てくるお話がいくつかあって、中でもリア王は道化の集大成的なことを言われているらしいですが。

 道化というのは王様につきしたがって、面白おかしい冗談とか、世界の真理とかを歌ったりして、王様を慰める存在で、常に物語の核心に触れているのですが、物語の中には入れないのですね。

 入れないというより、自由がない。

 彼は王様の道化であって、どんなに言葉で王様に真理を説いても、笑い飛ばしても、王に従う以外に生き方はない。いわゆる第四の壁的なものを破って、物語の外に向け「予言」をかましたりは出来ても、物語の進行に食い込むような行動は取れない。

 このチェンという青年も、物語の中では割と自由というか、少年を追いかけたり、手下を使って老人に意地悪(?)させたり、中では「行動」をしている方だけれど、進んでいく物語の中ではただひとり、象を見に行くという行動に移さずその町に存在し続けている。

 やはり、彼は道化のように動けないのだと思う。クソみたいな世界が彼の王様で、王様に付き従うしか彼には生き方がない。救いを求めるという行動を取ることが出来ない。

 また、死ぬということも出来ないのでしょう。彼の目の前で「この世界、ヘドがでる」と言って、ピストルで死ぬという最高の世界の進め方をする男がいますが、彼はただそれを見て、浴びているだけ。

 クソみたいな世界を浴び続けて、そこで生き続けるだけ。

 彼にとって親友から聞いた「座っているだけの象」はどういう存在だったのか。そういうことを考えて、答えはなく、いい気持ちになる。

 やっぱり象はとてもよいものだ。

 そんな映画でした。