すべての群れの客である

大地から5センチくらい浮きながら文章を書くよ!

『空ばかり見ていた』【もぐもぐ篇】

 ずっと咀嚼している。

 岩松さんの書く物は難解だと言われているということを最近知って、知った瞬間に確かに「難解」かもー! と思い、その概念を借りパクしてもう血と肉になりました。それまで好きだということ以外なにも考えたことがなかったんですが。

 それも前述した理由に対する態度が関係していると思います。あ、前回を読んで頂いている前提でお話しますがすみません。

 理由を表明しない。出来ない。したくない。そういう人たちが沢山出てきて、互いに「え? 何? お前今なんて言ったの?」みたいなことをして、理由を探し回ったり理由を蹴っ飛ばしたりしているので、難解なのかもしれない。

 でもそれは組木のパズルのような骨太な難解さではなくて、絹の糸が絡まっているような、繊細で美しくて、きらきらしていて、でも朝露みたいにそこら中に存在するような、柔らかくて不可思議なそれでいて心地のよい難解だと思います。
 じっと見てしまうような、ずっと見ていたような難解さ。

 今回の『空ばかり見ていた』は、内戦中、反政府軍のアジトのような場所(小学校?)が舞台で、出てくるのはその反政府軍の人間と、捕まった政府軍の捕虜二名、主人公の秋生は反政府軍の一員で、軍のリーダーの腹心のような男。彼はリーダーの妹と恋人関係にあるがしかし――、というような内容です。たぶん。

 はちゃめちゃ面白かったです!!!!!!

 上記がこの舞台の感想です。めっちゃよかった。最高だった。大好き。という感想です。本当に良かった。好き!!!!!!!

 それが全てです。
 でも最近私は頭がちょっと良くなった気がするので(映画を5本くらいよく見たから)今回は感想ではなく解釈をしてみたいと思います。すごーい!

 で、今回のお話は「位置」という観点から見られるのかもしれないな、と思ったのです。位置というより「位置取り」と言った方が良いのかな。

 舞台はワンセットで進んで言って、それが反政府軍のアジトになっている学校の教室がメインなのですが、ほとんどすべての人間が椅子に座るときに明らかに向きを変えていたような気がします。

 なんだかもう偏執的なまでに。

 椅子に座るという行為に意志がついている。大きく引いたり、右に向けたり、左に向けたり。ただすっと座るのではない。何かとても引っかかる動きだったな、と見ている時に思いました。

 さて、私はもう岩松さんが本当に大好きなので、おうちの机のすぐ横に岩松さんの本を並べていないと「ウーーー」って獣みたいになっちゃうので、もちろん今回も戯曲を買いました。

https://www.amazon.co.jp/%E7%A9%BA%E3%81%B0%E3%81%8B%E3%82%8A%E8%A6%8B%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F-%E5%B2%A9%E6%9D%BE-%E4%BA%86/dp/4898155022

 わー! 最高~~。表紙がおしゃれ!
 リトル・モアさんから出てるんですよ~。岩松さんの本はポット出版さんが多くてありがとうでしたが、最近は白水社さんも出してくださってありがとうですし、リトル・モアさんも本当に私のためにどうもありがとうと思うので、気になるかたはぜひ買って欲しい。でも観てこそだと思うので、舞台を見に行って欲しい。舞台はとても良い。

 あれ。なんか話が逸れような逸れないようなですが、以下、この本を読みながらうにゃうにゃ語ります、ということを言いたかった。


 さてそれで、主人公の秋生の台詞に「位置」を気にする所があります。
 先に説明した通り、この国はいま内戦中で、舞台はその反政府軍のアジトのような場所。
 秋生は自分が慕っているはずの反政府軍のリーダーの考えることがだんだん分からなくなっていて、おそらくこの台詞を言ったときは、その「分からない」が決定的になったときだと思うのですが。引用。

秋生「要するにオレは、何を求められてるんですか? 言ったでしょう⁉ オレは従うんです‼(中略)でもそれは横に並んでるんじゃない。縦に並んでるんだ。下の者が上を支える構造になってる!」

 これに対して、リーダーの吉田はこう答えます。

吉田「それが今のお前の苦しみじゃないのか? 縦に並ぶことができないということが!」

 縦列とか並列とか。そういう位置取りの話でもある。

 しかし秋生のこの「位置取り」の葛藤は、純粋なものだと思っていた恋人(リーダーの妹)への思いが、実はリーダーへの忠臣と憧れから生まれたものなのではないかという気付きも内包しています。

 真実好きなのか、そうでないのか、あるいは、信用して良いのか、悪いのか、これは感情を主軸にした立ち位置の問題とも言えます。

 この「位置取り」に関する問題を抱えているのは、秋生だけではありません。同じ反政府軍のメンバーの二見は、どうも捕虜との距離を上手く取れずに、些細なことにも過敏に反応しているように見えます。
 例えば、捕虜の一人(カワグチ)が、二見を知り合いに似ていると言う。その知り合いは引っ込み思案でいつもニコニコ笑っていた(とカワグチが言ったと二見は思っている)というのだ。そこでのやりとり。

 好きなのでちょっと長めに引用します。

二見「引っ込み思案がなんで笑うんだ!」
カワグチ「そりゃ知らねえよ。」
二見「いいかげんなこというなよ。ニコニコ笑うのは、引っ込み思案じゃないからだろ。」
土居「笑うよ、引っ込み思案だって」
二見「たまにはね、たまにはでしょう!? こいつはいつも笑ってたって言ったんですから。」 
カワグチ「いつもなんて言ってないよ」
二見「言ったろ! いつもとか、そういう言葉つかったろ!」
カワグチ「いつも……。」
二見「ああ!」
カワグチ「(考えて)……なにかにつけ?」
二見「それだ! なにかにつけ! ほぼいつもだろ!」

 引用していてあまりにも岩松さんで、好きすぎて踊りたくなってきた。これ、このすごく些末な言葉の使い方をものすごく気にしたりする感じ。理由のまわりをぐるぐるしているとそうなるんですよね。わー、わかるー! すきー!

 話がすぐ「好き」に逸れてしまう……戻します。

 二見も他の兵士も、この捕虜との付き合い方に対して、だんだん良く分からなくなっているみたいなんですね。共に時間を過ごすなかで、互いの位置取りについて忘れてしまいそうになる。それはもちろん「戦争」についての位置取りです。政府の側にいるのか、反政府の側にいるのか。問題はすべてそこにある。でも本当にそんな問題があるのか?

 母と息子の会話。

真山「悪いだろ、悪いにきまってるじゃないか! あいつら国を守るためとか言いながら、国を売り渡すようなことしかしてないんだよ。オレたちから徴収した税金も、国を売り渡すためにつかってるんだよ!」
登美子「だって、ああやって私たちが住んでるところを攻撃することが政府分の目的じゃないはずなんだよ! そうだろ? 他の何かがあるんじゃないのかい!? 悪いことは言わないから、こんなところにいないで……ね、まさとし」
真山「ちょっと待てよ、何だよ母さん。オレたちのことを否定しようとしてるのか!?」
登美子「してないよ。わからなくなってるんだよ、私も。だって、なんで私たちが住んでるところをああやって攻撃しなきゃならないんだよ。同じ国に住んでいながら!」
真山「……」


 同じ国に住んでいる。これは字の意味のまま、場所という意味での位置の問題でもあります。

 秋生の恋人であるリンは、途中何者かに襲われて怪我をするのですが、そのとき秋生は任務で少し遠い土地に居て、実際にはその場にはいないんですね。たぶん。少なくとも、秋生はいなかったと思っているし、他の人間もいなかったと証言している。

 けれど、ある時から秋生は「本当はそこに居たんじゃないか?」と思い始めます。居たのに恋人を助けられなかったのではないか、と考え始める。

 自分がどこにいるのか、どこにいたのか、どこにいたいのか。

 『空ばかり見ていた』というお話は、そういう観点からも見られると思うのです。自分の解釈を述べるのが恥ずかしいのですぐ「思う」とか「たぶん」とか言ってしまいますがたぶん。

 というよりお話には無限の見方があるものなので、他の見方からも無限に語りたいですが(たとえばこの話なら「記憶」とか「見る」という方向から)でも今回は「位置」からの話します。

 で、特徴的な人が、とうより私が好きな人がもう一人。

 この話の中で「位置取り」合戦からすごく離れた場所にいるように振る舞っている土居という男がいます。彼はいつも秋生の身近にいて、リーダーの吉田にも信頼されている男です。たぶん。

 けれど、彼はずっとどこか冷たいんですね。誰かがわちゃわちゃなっているときにも、どうも離れているような感じがする。おどけることもあるけれど、ちょっと離れた場所で事態を眺めながら、外側で笑っているような感じがする。

 だってカメラを持っているんですよ。彼。
 いや、だってということはないですけれども。でも、だってねえ。カメラって。写真ですよ。時間を切り取って物にする行為でしょう? 場所を切り離して持ち出すという行為ですよ。しかも戦場で。写真て。

 言っておきますが、今の文章は完全に「土居くん好きだなー」という激しい感慨を何かちゃんとしたことを言っている風な言葉に変換しようと努力してみただけであって、写真がどうたらということについてはあまり深く考えていません。

 えー、やばーい! 土居くん超すきー。という文章です。

 この土居くん、離れた場所にいるように振る舞っていますが、この話の一つの側面での最も重大な「事件」は実は彼が起こしているんですよね。
 実はほとんど話の中心にいる。
 それでいてやはり、彼は離れているんですね。というより、隔絶している。いずれかの場所にいるということを、自ら放棄している節いるように私には見えました。

 そして土居くんは、同僚である石川を甘やかしている保険のおばさん(戦場に保険のおばさん!)である田中にこんなことを言います。

土居「いや、オレあいつがイキイキしてるの、おかしいと思うんですよ。」
田中「捕虜を撃ったから?」
土居「そうですね。そう思ってもらってもいいかな。」
田中「あなただって、撃ってるでしょ!? タジマでの戦闘の時には。」
土居「ええ、だからホラ、オレはイキイキしてないじゃないですか。人に銃を向けといてイキイキしてるのはおかしいと思うから……かなりひきずってる感じ、あるでしょ?」

 正直イキイキしてない、とか、ひきずっている、というのはピンと来ませんでした。でも確かに、登場からずっと彼は「何かっぽい」感じを醸し出していたような気がします。
「何かっぽい」というのは、火サスに出てる大女優に感じるこいつか犯人か? みたいな類いのものではなくて、なるほどこいつがキーパーソンなんだな、というようなものでもなくて――。

 単に異質だったのだ。

 無論、戦時中のお話だし、意識しなかれば分からないほど、本当は絶えず場の背後には緊張感がある。言ってしまえば彼以外も全員異様で、平時の状態ではない。
 けれど、その中でも取り分け土居くんは異質だった。

 だって彼、カメラを持ってるんですよ。

 なんでかそこに戻ってきちゃうな。どうしてだろう。それでも、考えてみようと思うと、土居くんがカメラを持っていることに意味があるとは思えないんですよね。あったとしても、何か重みがないような。
 けれど、実際、重みのある物事っていうのは、嘘のような気がする。

 後書きで岩松さんはベトナム戦争の時に兵士だった作家ティムオブライエンについて書いています。私もすぐ飛んで行ってこの本を読んだのですが、後書きにも書いてあるこの言葉。

 本当の戦争の話というのは戦争についての話ではない。絶対に。それは太陽の光についての話である。それは君がこれからその河を渡って山岳部に向かい、そこでぞっとするようなことをしなくてはならないという朝の、河の水面に朝日が照り生える特別な時間についての話である。

 もしかすると、土居くんが冗談めかして「心に残ったものを」撮っているのだ、と言っていた時、本当に彼は心に残った景色を、戦争についての景色を撮っていたのかも知れない。そこに生えている草木を、戦争の景色を。
 けれど、外から見ていて、それは決して私たちに特別な意味をもたらしはしない。彼が写真を撮っていることについて、何かっぽいとは思っても、痛烈にそのことについて分かることは出来ない。

 というより、私は分かってしまいたくないと思う。

 勿論、そこから何らかの物語を発見することは出来る。作り出す、と言っても良いのかもしれない。どんな人間のどんな動作からも、また言葉からも、物語を読み取ることは可能だ。そしてそのことを、とても尊い行為だと思っている。そうじゃなくては作家など目指さない。

 ただ、やはりこれも理由の話と同じで、ある物語を読み取るということは、他のあったかもしれない物語を排除するということにもなる。
 複数の筋が同時に、かつ別個に存在する物語というものはあり得ない。いや、土の中に複数の種が存在している場合によってのみ、それはあり得る。さまざまな物語は土の中で同時に存在することが出来る。しかしそれは芽を出した瞬間に一つの植物になってしまう。

 芽吹かず花を咲かせることはないし、桜の幹の上にひまわりが咲くことだってない。土から外へ出た瞬間に、それらは決まった筋道で成長を始める。

 花が咲いたらとても嬉しいだろう。けれど、あったかもしれない他の花の色を思い描いていたのだ。だから、出来るだけ長い間、土の中に種が入っている状態でいたい。

 そうもしかしたらお気づきの人もいるかもしれない。
 私は、この記事(記事なのか?)の物語の筋をもう見失ってしまっている。土居くんの話をしはじめたところから、どうも怪しいと思っていたのだ。そもそも、二つの記事に分けるべきではなかった。
 着地が分からずさまざな所へ手を伸ばし――いわば、手に負えないほどの種を蒔き――全部咲かせようとうにゃうにゃやってきたが、そもそもそんな肥沃な土地を私は持っていない。プランターで椰子の木は育たない(たぶん)

 最初から無理があったのだ。

 だって私は、岩松さんのお話を解釈してしまいたくない。ずっと咀嚼していたい。血肉にしたくない。ずっとどこかにいてほしい。
 なのになんでこれを書き始めたたのかというと、そうは言っても一度口に入れたものを永久に噛んでいることは出来ないからであり、今日食べたものも思い出せないほど、忘れん坊であるからだ。

 なんてことだ。
 こんなうやむやの文章になるつもりではなかった。なんなら、架空の読者は、さすが岩松さんを愛しているだけあるね! 君の解釈はなかなか面白かったよ! と褒めてくれていたくらいである。

 途中、丁寧語になったり、言い切り型? になったりしているのは、偉そうに語りたくなかったからであるが、結果むにゃむにゃした文章になってしまった。でもそれについては癖なので甘く見て欲しい。

 よし。もうやめようと思う。
 いつかもうちょっと成長して、うわー見てみたいなぁ! と思ってもらえるような文章が書ければ良いと思う。ともかく『空ばかり見ていた』面白かったですという話だった。

 うまい終わりの言葉が見つからないので、この記事(記事……?)はぽんぽこぽん、と言うことで終わるようにしておく。これはスパイが手に入れた情報が3秒後に消えるのと同じ原理である。平成狸合戦ぽんぽこを忘れてはならない。それでは。



 ぽんぽこぽん。